斑尾近郊にある歴史巡りコース 天地人、岩松院など

斑尾 むね樹ペンション
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斑尾高原から1時間以内の場所には多くの観光名所があります。文学歴史探訪の旅としても興味深いものが沢山あります。

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天地人 新潟県妙高市と勝福寺 春日山

■新潟県妙高市と勝福寺 斑尾から1時間
新潟県妙高市には、上杉景虎終焉の地となった鮫ヶ尾城跡が今も残ります。景虎は御館を脱出し、鮫ヶ尾城へ向かいます。立ち寄ったが味方の城将に、裏切られ自害したといわれています。鮫ヶ尾城下の勝福寺には、26歳という若さで亡くなった景虎をしのび、供養をした碑が建てられています。

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愛・天地人の旅 妙高高原から春日山、そして六日町へ
●御館跡
関東管領上杉憲政の居館であり、謙信の外交を担う政治の場であった。直江兼続が活躍した上杉景勝と景虎の跡目争い「御館の乱」の主戦場。 
御館は上杉謙信が1555年から1558年ころ関東管領・上杉憲政のために造営した館とされ、謙信が政庁として使った場所です。
上杉憲政は北条氏康から逃れ、謙信を頼って越後にやってきます。その時、謙信は長尾姓から上杉姓と姓を変えました。後日、謙信は氏康と和睦し、人質として七男を迎え入れます。これが養子景虎です。
謙信死後、景虎はもう一人の養子景勝(元親は謙信の姉)と相続抗争「御館の乱」に至ります。


●新潟県上越市春日山
上杉謙信公が城を構えた春日山。本丸跡からは上越市街地と上越の自然が一望できます。

●春日山城跡 毘沙門堂
JR直江津駅から頚城バス乗車・春日山下下車、徒歩20分。
上杉謙信が信仰した戦の神、毘沙門天。謙信は毘沙門堂を春日山城に建て、戦の前に堂にこもり、必勝祈願をしたとされるテレビのシーンでも有名でしたね。

●春日山神社
上杉謙信を祭神とし、旧高田藩士小川澄晴が祭主となって創建。境内には記念館もあり、その「春日山神社記念館」には、謙信の遺品・資料などが展示されています。

●林泉寺
長尾能景が創建したお寺。上杉家にまつわる展示を見ることができます。上杉謙信が7歳から14歳までの間住んでいたということでも有名です。

最後に裏切ったといわれる人物が鮫ヶ尾城主の堀江宗親(むねちか)でした。堀江は景虎が春日山城を出て御館にこもるや駆けつけ、戦いの当初から景虎を支援しましたが、景虎が落ち延びてからの鮫ヶ尾城での戦いぶりは謎に包まれています。後年記された史料には、内部に景勝側と通じた者がいたとされおりそれが 堀江といわれています。


小布施 梅洞山岩松院 葛飾北斎の八方睨み鳳凰図

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梅洞山岩松院
葛飾北斎の天井絵・福島正則公の霊廟がある 。春の桜の頃には裏庭の池で蛙合戦を見ることも出来ます。本堂大間の天井には八方睨み鳳凰図、21畳敷きの天井いっぱいに翼を広げた鳳凰の画で、葛飾北斎 最晩年の作品があります。
裏庭には小さな池があり、桜が満開を少し過ぎた頃、たくさんのアズマヒキガエルが集まって産卵をする「蛙合戦の池」がある。小林一茶の句碑が池のそばに立っています。

八方睨み鳳凰図(葛飾北斎)
晩年の83歳から88歳にかけて4度も長野県小布施町に滞留したがなぜ老骨にむち打ってまで、山深い里に通い続けたのか。そんな「北斎の謎」は数多いもの です。岩松院の天井絵「八方睨み鳳凰図」は鋭く光る目は迫力があります。くじゃく石、辰砂などの鉱石や4400枚の金ぱくがふんだんに使われ、その色彩は 描かれた当時から変化していないと言われています。
 なぜ老画家が江戸から約240キロも離れた小布施に通い続けたのか。「天保の改革で錦絵や版画の販売が規制され、芸術活動を続けるために旧知の豪商、鴻 山を頼ったのでは?」とか。「北斎スパイ説」鴻山は漢詩人、梁川星巌を通じて尊皇攘夷(じょうい)の志士と交わり、幕府に反乱を起こした大塩平八郎とも交 流を重ねていた。これを危険視した幕府が鴻山を監視するために隠密だった北斎を送り込んだという説もあります。何にせよ一度ご覧いただくとその迫力に目を 奪われます。


高野辰之記念館

高野辰之記念館 豊田村

■豊田村記念館
「故郷」「朧月夜」「もみじ」「春がきた」「春の小川」
の代表作が知られていますが、長野県下水内郡豊田村の豪農出身で記念開館館内には、辰之が父に宛てた書簡や編纂に携わった尋常小学読本、尋常小学唱歌などを展示しています。また、音楽室にあるオルガンは誰でも弾くことができ、「春の小川」などの楽譜も用意されています。また周辺には、辰之の生家や菩提寺の天正寺、「朧月夜」の鐘がある真宝寺、斑川、ふるさと橋などをめぐる遊歩道が整備されていますので、辰之が目にした風景を眺めながら、里山ふるさとの原風景にふれてみてはいかがでしょうか。
■信州野沢温泉には、おぼろ月夜の館(斑山文庫)があります。
野沢温泉村の自然と人情をこよなく愛し、麻釜(現在のクアハウス付近)に別荘「対雲山荘」を求めて、晩年の12年間を過ごしました。
 この記念館は、平成2年10月に開館、年間約1万人の来館がある。斑山(はんざん)と号された博士が、学問研究の生涯に残した業績は数多く、1階の「斑山文庫」には愛用の筆と落款、書、日記、手紙、研究ノートをはじめ、博士の資料と著書などが常設展示されています。


中山晋平記念館

中山晋平記念館

『シャボン玉』でも有名な作曲家の中山 晋平は、長野県下高井郡日野村(現・中野市)出身であり、多くの傑作といわれる童謡・流行歌・新民謡などを残しました、多くの作品やその生涯について知ることが出来る記念館があります。
300点以上の資料や竹久夢二装画の作品集などが展示されています。

ステージのある展示室では、時々、ミニコンサートが開かれ、リスニングコーナーでは晋平が作曲した曲を聞くことができます。裏には中山晋平が生まれ育った生家もあります。
記念館裏手にある中山晋平生家。「シャボン玉」「証城寺の狸囃子(しょうじょうじのたぬきばやし)」などの童謡や、大正時代のヒット曲「カチューシャの唄」など数多くの名曲を残した作曲家です。その功績は、それまで庶民には遠い存在だった音楽を手の届く所まで近づけたことと言われています。


小林一茶記念館

小林一茶記念館

一茶終焉の土蔵が国史跡に指定されたのを記念して、1960(昭和35)年、一茶の墓のある小丸山に開館しました。2003(平成15)年4月新館となり、一茶の生涯と文学・一茶のふるさと・一茶顕彰などを展示しています。

小林一茶は、1763(宝暦13)年、長野県の北部、北国街道柏原宿(現信濃町)の農家に生まれ15歳の春、江戸に奉公に出されました。奉公先を点々とかえながら、20歳を過ぎたころには、俳句の道をめざすようになり葛飾派三世の溝口素丸、二六庵小林竹阿、今日庵森田元夢らに師事して俳句を学びました。
一茶は、39歳のときふるさとに帰って父の看病をしました。父は、一茶と弟で田畑・家屋敷を半分ずつ分けるようにと遺言を残して、1か月ほどで亡くなってしまいました。このときの様子が、「父の終焉日記」にまとめられています。


豪商の館 田中本家

須坂市にある「豪商の館 田中本家博物館」は、江戸時代の信州屈指の商人田中家の大邸宅を、博物館にしたものです。3千坪もの敷地に、5棟の蔵を改装した展示館と、四季折々に楽しめる広大な庭園があり、江戸~昭和の日本の豪邸の調度品・美術品・文化浸ることができます。

庭園には樹齢約250年の大カエデがあり、紅葉の名所となっています。敷地面積約3000坪の中に3つの庭と2つの花壇があります。田中家では、昔から春 の庭、夏の庭、秋の庭といって楽しみ、四季折々に変化する花々は、現在も博物館を訪れる方々楽しませてくれています。四季ごとに楽しめる庭の景色は一見の 価値があり、その見事な景色は何度訪れてもその色合いや景色を変え楽しませてくれます。
ホームページ 豪商の館 田中本家博物館


小菅神社 長野県指定文化財スギ並木

小菅神社

小菅神社のスギ並木(飯山市)は長野県指定文化財ともなっています、また小菅神社の創建は社伝によると645~710に役行者が開き806坂上田村麻呂が八所権現本宮と加耶吉利堂を再建したと伝わる古社です。

当初は馬頭観音の化身とされる小菅権現を主祭神として熊野・金峯山・白山・立山・山王・走湯・戸隠の7神祀った事から八所権現と称し、元隆寺大聖院を別当寺としました。修験霊場として発展し室町時代の最盛期には上の院16坊、中の院10坊、下の院11坊、合計37坊を元隆寺大聖院が総括し戸隠、飯綱と並び北信濃三大修験場として広く信仰され大きな影響力を持つようになりましたが、戦国時代の上杉領になると上杉氏から庇護され、上杉謙信が戦勝祈願に願文を奉納、小菅神社奥社本殿を造営するなどが行われましたしかし1567年の川中島の戦いの兵火を受け、多くの堂宇、社殿が焼失し急速に衰退してました。

現在では、世界的にも注目される石仏信仰の研究もされ、隠れた名所ともなっています。修験道の場としての面影があり、神秘的な場所でもあります